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磨き抜かれた保育士

日本では村祭りに出たり、靖国等、さまざまな神社に行き、地域の人達と触れ合う中で、例えば、日本の神道というのは、非常に平和的でピュア、純粋でそして寛容なものであるということを肌で感じたわけです、と…。
問題は、占領が終わった後、日本がそのことをどう受け止めるのか、日本人の方にボールは投げられているのですね。 その意味で、私共が、この占領政策をもう一度振り返って、日本人がどう受け止めるのかということが正に問われているのだと思います。
占領軍のCIEという民間情報教育局という所が、教科書の分析をしているのです。 例えば、修身の分析ですが、昭和十六年以前の修身教科書には問題がないと書いてあるんです。

「大変善良で純粋で立派な徳目が盛り込まれている。 アメリカの小学校の教材と比べて大差ない。
そこでは、愛国心は説かれているが、中庸な愛国心であって、それは、何処の国でも教えている。 問題なのは、昭和十七年、日本が軍国主義と超国家主義の時代に入って、その繰り返しのパターンが見られるが、それは一時的なものである。
だから、昭和十六年以前の修身教科書にもどせば良い」と、これが結論なんですね。 ぼくら戦後生まれの人間は、修身教科書というと、何か全部封建的、反動的なとんでもない道徳教育という印象を持っているんですが、むしろ、アメリカ人の方が、クールに、「いけないところはいけなどと普遍的な道徳を教えている所と、軍国主義、超国家主義を区別して報告書が出来ています。
日本歴史で特に問題になったのは、神話なんですね。 神話は、神話というものの中に象徴されている臨床の深い知恵が、象徴物語として書かれているわけですが、そういう神話というものの意味について理解がなかった。
神話を強調しすぎている日本の歴史は、軍国主義や超国家主義につながるという理由で危険視したのです。 地理は何故、停止になったかというと、ウルトラナショナリズム、超国家主義が問題だといっているのです。
「大東亜共栄圏を強調している」ということです。 私達戦後生まれは、大東亜戦争という言葉を知らないから大東亜共栄圏なるものも知らない。
その前に、日本国、中華民国、タイ国、満州国、フィリピン国、ビルマ国による、大東亜共同宣言というものが出ているわけです。 いったい、あの大東亜戦争は、どういう理解のもとに戦ったのかということを知らないのですが、その考え方が地理の教科書に盛り込まれているわけです。
まず、六つの原則があります。 私は、今、ナンバーワンからオンリーワンの教育へと変わるべきだと、全国で言っているのですが、今の日本の教育は、他人と比較して他人との差異で、ナンバーワンを目指しているわけです。

ところが本来、教育というものは、オンリーワンの価値を皆持っている。 それは、国も同じです。
日本の国は、共存共栄、自主独立を尊重するという日本のオンリーワンの価値を持っているわけですね。 さまざまな独立国家が生まれたわけですが、これは、オンリーワンを大切にするからです。
それに対してナンバーワンというのは、他を犠牲にして繁栄するという覇権主義です。 それから、伝統文化の相互尊重、そして、互恵的敬謙、互いに恵み合う、助け合う関係で経済発展をとげる、ということですね。
人種差別の撤廃、特に欧米による植民地支配が五百年もあったのですから、白人種と黄色人です。 東京裁判史観というものが戦後の歴史学者の主流になっている中で、P判事を取り上げる必要があるという価値観を持った人がほとんどいないということです。
本当は、両論併記する形で述べているのが望ましいのですが、そうはなっていない。 P判事がどういう方なのか、と言いますと……一九四六年に、インドの代表判事として東京裁判にやってきたPさんは、インドで生まれ、一九〇五年の十九歳の時、日露戦争による日本の勝利を聞いてその時、インドとの差別の問題、黒人の問題等、さまざまな人種差別を撤廃する。
資源の解放、資源を独占しない、との六つの原則が大東亜共栄宣言の中にあるのですが、こういうことを地理の中で、大東亜共栄圏の地図と共に強調していることは、大東亜戦争の肯定につながるという理由でアメリカ側が危険だと考えて、地理の授業も停止したということです。 一九〇八年、二十二歳の時、数学の理学修士の学位を取って、三年後には数学教授になっているわけです。

ところが、判事のお母さんは「あなたには、弁護士になってもらいたい。 そして、インド民族の救世主になってほしい。
私は、家族を連れて田舎に戻ります。 おまえも、給料の全部を使って法律の本を買いなさい。
」と…。 たいへんなお母さんだったわけです。
三十四歳で勉強しなおして法律の修士をとり、三十八歳で法学博士になりました。 一九四一年、K高等法院の判事になったんですね。
のちに、K大学の総長になりました。 親友のN首相から、東京裁判のインド代表判事になるようにと指名を受けたわけです。
もう一つ、エピソードがありますが、判事は、裁判の続いていた二年数ヶ月の間、読んだ資料は四万五千部、読んだ本は三千冊というんです。 結審が近づいた一九四八年八月に、ご夫人が危篤になり電報が届き、インドに帰りました。
ところが、博士にご夫人がこう言った。 「あなたが帰ってきてくれたことはとても嬉しい。
しかし、今、あなたは、日本の運命を裁こうという大切な体です。 あなたが使命を果たされるまで、私は決して死にません。

どうぞ、日本にお帰りください」。 アメリカは、「天皇個人をどうするか」と「天皇制をどうするか」を分けて考えていました。
いうのが、彼の結論でした。 東京裁判で、唯一、「無罪を」と言った判事が、この方であります。
P判事は非常に感激して、東京に戻りました。 ご夫人は、裁判が終わったあと、判事が手をとっている中で亡くなっていった、というエピソードのある方ですね。
P判事は、「平和に対する罪とか、人道に対する罪は、認められない。 共同謀議はなかった」と言いました。
戦勝国が、勝手に勝者の裁きでやったことだ。 勝者であるという理由だけで、敗者を裁くことは、天皇個人について、アメリカのギャラップ調査というのがありましてね。
三三%「処刑しろ」という意見です。 「島流しにしろ」「牢屋にいれろ」等、圧倒的に厳しい意見でした。
アメリカの上院は「天皇を戦争犯罪人として裁くべし」と、全員一致で決議をしたのです。 Mに対して、「天皇の戦争責任の証拠を集めなさい」という指示を参謀本部がやりました。
Mは、証拠を集めるためにも日本人からの直訴も読んだわけです。 彼は、その結論を、昭和二十一年一月二十五日に電報で送りました。
「もし、天皇を裁判にかけるならば、数世紀に渡って、復讐が展開されるだろう。 日本人が、各地で立ち上がってゲリラ戦が起こるだろう。
そのために、数十万の軍隊を派遣しないと、とても収められない」等、大変、危機感に満ちた電報を書いて、結局、天皇を裁判にかけない、処刑しない、そういう結論をMが出しているのです。 昭和天皇ご自身がどういうお気持ちであったかといいますと、侍従長に、こういうふうに話をされたそうであります。
「申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。

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